2015年10月25日、滝川市に所在する焼肉店『楽しい煉屋』の店舗建物が営業終了後の『無人状態』で突然炎上し、全焼する大火災が起きた。
当時、消防ならびに警察は即座にどう判断し、テレビや新聞でどのように報じられたか。恐ろしい火災を現場写真と各ニュース映像を出典明記の上で引用し、筆者の考察を交えて批評としてまとめた。
これはけっして消防車を追いかけるような野次馬根性での記事ではなく、火災の概要ならびにその恐ろしさを考察し、それらを広く伝えるのが目的である。
そもそも今回の火災は放火と報道されていないため、そこに野次馬根性など入り込む余地は一遍も無い。
一体、当該店舗にあの夜何が起きたのか。年表から一切省かれてしまった史実を見ていこう。
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『楽しい煉屋』の火災とは?
報道によれば、2015年10月25日、北海道滝川市本町2丁目の焼肉店『楽しい煉屋』は午後十時過ぎに閉店し、出火当時は「無人」であった。無人とは人がいない状態だ。すなわち、なんびとも当該店舗には事実上いなかったのだ。それを一般的に「無人」と呼ぶ。決して、この部分を忘れてはいけない。
鎮火直後の煉屋には救助工作車と滝川署のJ31ティアナ捜査用覆面が停まっている。え、ナニを捜査するんだ……?ナニって当然、事件性の有無だ。つまり「楽しい煉屋」に対する怨恨の線の捜査である。すなわち放火行為の有無の確認である。捜査覆面で火災現場に刑事がヒョッコリ来るのは当たり前。事件性の有り無し、初動捜査のメソッドくらい学んどけ。はーい。白々しい。焼肉おいしい。底辺の五感に訴えるのはいつでもラーメンとか焼肉など俗物的な食い物なのだ。ヤンキーの成り上がり(笑)
んで、開放された当該店舗の大きな扉の奥には、焼け落ちた屋根と思われる瓦礫の山が消防用のLED照明に照らし出され、生々しく映る。火は実に6時間後に鎮火。筆者が寝ている間中、くすぶりながらもずっと燃えていたのだろう。
※余談だが、本件火災の2か月後、2016年の1月1日に起きた滝川郵便局裏の一般住宅における焼死火災にて、火災鎮圧後に再び煙が上がるという不完全消火の不祥事を滝川消防自身も起こしている。
そして、北海道新聞2015年10月26日版(空知地方版)の紙面でも、その凄まじいまでの炎上が報じられていたので記事と写真を引用させていただいた。同記事には猛烈に炎を噴き上げる恐ろしい『楽しい煉屋』の店舗建物と、それに立ち向かい今まさに消火活動をしている滝川消防署員らの写真が載っている。立派な消防士なのに妻から支給される毎月のお小遣いが少ないので無許可でアル略。ネットスラングの”炎上”も定着して久しい。しかし言わずもがな、本来炎上という言葉が正しく使われるべき例は、暴言で綴られた不謹慎な中傷ブログに端を発する自爆ではなく、建物などの火災である。
悔しい。これを自分自身で撮りたかった。最高のSCOOP!になったはずだ。福山雅治か。ナイトクローラーだろ。火災現場にカメラを持って毎回現われる……。いや、それはもう放火魔だ(笑) 当時はまだアナログで、記者も公然と事件事故情報のソースとしていた消防無線。それが2016年でデジタル化完了。デジタル変調における1秒の遅延が消防士の生死に影響を与えると言われている。
なお同記事によると、当該店舗から出火した火は棟続きの隣の倉庫まで延焼し、店舗および、倉庫が全焼したという。
火災における延焼は恐ろしいとしか言いようがない。狭い範囲に何十件もの店が犇めくこの辺りで大きな火災など起きれば、広範囲な延焼をも招く可能性があった。かつて滝川市内で起きた全半焼36棟の被害を出し、災害救助法の適用を受けた「黄金町大火」を想起させる。
すぐ右側には「海鮮工房やまだ」所有の二階建てプレハブ型倉庫が所在している。
焼肉店 午後10時すぎ閉店 出火当時 誰もいない
典拠元 HBCニュース
誰もいないのに無人の店舗で発火し、全焼してしまったのだ。そして『失火と放火(不審火)の両面で捜査をしている』という、お馴染みの警察発表のフレーズを報道で聞かなかったのは意外だ。
2019年、滝川市内で発生した建物火災の報道では、まさにこのフレーズを聞いたので、このフレーズ自体は死んではいないのだなと妙に感慨深いものを感じた。
ちなみに現場に行かずに警察発表だけで記事を書く新人記者はベテランの記者に烈火のごとく怒られるんだと。
現場で実際に見た全焼後の様子
日曜日で暇だったので実際に「楽しい煉屋」付近で写真を撮ってきた。
現場その1
日曜日の昼過ぎに当該店舗の前を通ると、消防車が一台と、覆面が店の横に停車していた。隣の魚屋の敷地内の駐車場で刑事と消防からグルリと取り囲まれて事情聴取を受けている者数名。火災は悲惨だ。現場の交通規制はすでに解除されていた。
さて、実際に現場で全焼した当該店舗というか、倉庫を見る。正面から見ると全体が残っているような印象も受けるが、側面から見ると屋根はすっぽりと抜け落ちていることに息をのむ。これでは全焼というよりは崩壊といったほうが表現として適切かなと、崩れ落ちた煉瓦を見てそう思う。
店舗はとくに後ろ側が完全に崩壊。特徴的なレンガ造りの店舗建物はガワを残して屋根が抜け落ち、煉瓦は四散という酷い有様。大口を開いたままになった店の中央の扉。
その奥に見えるのは、焼け落ちた屋根の残骸、そして薄ら寒く白けた10月の空だけ。このうすら寒い空の白色だけは実に感慨深い。煉瓦倉庫の横の小屋は煉瓦外壁ではないので後付けの食材倉庫か何かだろうか。
小屋の屋根の一部は真っ黒になっているものの、屋根はほぼ残っており、また灯油タンクは焼損せず。
その手前の青いゴミ箱も残っている。
現場その2
店舗裏から。すでに現場の混乱は収拾し、警察も消防も電線復旧の北海電工もいない。そこに在るのは、変わり果てた姿のレンガ倉庫。そしてそれをスマホのカメラレンズ越しに見つめる筆者。
こちらは当該店舗に隣接する”倉庫”の様子。火災の激しさを伺わせる。煉瓦は燃えないというのが一般論だ。
見てのとおり、崩れてはいるが、煉瓦は燃えていないように見える。
煉瓦の詳しい耐火性能については筆者も知識不足であるが、一般的に煉瓦は良好な耐火性能を有していることは広く知られている。
こちらは公道上から撮影した店舗裏の様子。一体この店で何が起きたのだろうか。なぜ突然火が出たのか。煉瓦の外壁にのしかかる、ひしゃげたモノは金属製の屋根の残骸か。日本の一般住宅の火災現場に比べると、奇異に映る。まるで内戦続くシリアの住宅がアサド政権に空爆を受けたかのような悲惨な光景だ。
「楽しい煉屋」は一世紀の歴史を持つ滝川の”おじいちゃん倉庫”だった
さて、ここで主に申し述べたいのは、当該店舗「楽しい煉屋」が入っていたレンガ倉庫の歴史的希少性およびその価値、また当時の時代的な背景に関する考察である。失われる前のこのレンガ倉庫の歴史は特筆に値する。
実はこのレンガ倉庫、明治末年に建てられた大変古い歴史を持つといういわゆる”歴史的建造物”であったのだ。
とは言え、国や道に指定されてはおらず、あくまで民間資産の単なる古い物件という位置づけであった。一方で、1888年(明治21年)に建てられ、国の重要文化財にも指定されている有名な「北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)」も実は1909年(明治42年)に一度、札幌大火による火災で屋根や建物内部が消失している。ただ、こちらは奇跡的に外壁のレンガは残り、2年かけて復元されている。やはり煉瓦は火災に強い。
宇宙空間から見た楽しい煉屋(全焼前)の様子である。画像中央の銀色の屋根の匚の字型の建造物が当該店舗だ。上空からの写真で見ると、「店舗」と、別会社が所有する隣の「倉庫」とは棟続きだということがわかる。
しかし、報道によれば、別の建物だそうだ。
この別会社物件の倉庫を含めると、当該建造物はかなりの大きさを持っていたのがわかるだろうか。これが今回の失火により、全焼してしまったという。
さて、元々今から100年ほど前の滝川駅は、全焼したこのレンガ倉庫の裏に所在していた。現在の滝川駅よりも1キロほど北であろうか。
交通のかなめには昔っから倉庫がつきもので、当時この石造りの倉庫には米や醤油などが蓄えられていたという。当時の滝川の歴史は筆者も研究中であり、文献や資料をよく調べているが、勉強不足である。
著作権法における典拠元の明示(出所明示義務)
http://azusan36.blog40.fc2.com/blog-entry-1831.html
そして……北海道新聞の記事でも報じられている通り、なんとこの「当該店舗」の北隣は現・滝川市長の邸宅だったのだ。
次ページに続く……。
「楽しい煉屋の北隣り」に滝川市長宅が所在
北海道新聞の報道によれば、『楽しい煉屋』の北隣には滝川市長宅が所在している。当局が当該店舗前の道路を連昼連夜覆面パトカーを走らせ、警戒していた理由はそこにあるのだろうか。市政の要(かなめ)をやられては……。
当局の警戒が日ごろ厳なれば、付近で飲酒運転なども起きないのかもしれない(何の断定もしていない)。もし、火災が起きても初期の段階で即座に発見されるだろう。住民が安心して暮らせる、安全な地域に違いなかったであろう。だがしかし、現実は違った。
だがしと言えば、楽しい煉屋の近所にかつて所在した駄菓子屋の黒ちゃんだ。黒ちゃんもまた、大きな事件を引き起こしてしまった。しかし、黒ちゃんだけはどんな不祥事を起こそうとも、夏の日の輝くラムネビンのごとく綺麗な僕らの思い出、優しかったおばさんの笑顔まで黒く汚れることは、決してない。
そして、周辺住民が恐怖におののいたのは10月25日午前一時前。
HBCニュースによれば「楽しい煉屋」の火災通報装置が作動し通報が入ったという。すぐに消火活動が開始されたものの、すでに火は”レンガ造一部木造平屋”の店舗建物、約800平方メートルを飲み込んでいた。店舗前こそ大きなT字路で開けているが、店舗裏は道路を一本挟み、住宅が10軒以上整然と立ち並ぶ。
燃えさかる火の海の中で燃料やガスボンベなのか、何かが何度も弾け、その爆発音が怖かったという付近の人の声も。ショートした電線は送電機能を失い、三楽街の多くの店舗に停電をも発生させ、付近一帯はブラックアウト。
冒頭で引用させていただいた北海道新聞の記事を見ると、あの燃えさかる炎の様子は午前2時10分ごろに撮影されたものだ。
そして、火災は6時間後に鎮圧(鎮火)された。100年の時を刻んだ歴史的「レンガ倉庫」は6時間の業火に晒され、見るも無残な姿に。昨日まで平常営業していたはずの店舗が。
写真は当然、店舗敷地外の公道からの撮影であるが、随分と離れたこの場所からでも、燻った臭いがした。
店舗左隣の「別会社所有の倉庫」の様子を公道上から撮影した。この写真は重機による解体が進んだ直後のもの。倉庫の中には重機が格納されていたようで、それもまる焦げになっていたが、すでに撤去されたようだ。倉庫については道新で報じられている通り、同店舗運営会社ではなく店舗向かいの別会社が所有するものだったという。火事はときに他人の所有物まで奪うのか。恐ろしい。
こちらは「楽しい煉屋」の後ろを、公道上から撮った写真だ。不自然にセメントでふちどりされた部分は、出入り口のドア部分であった。後付けされたのだろうか。
この「レンガ倉庫」に足を踏み入れたことは一度たりともないので、店舗内のホールの間取りなど今となってはまるでわからない。ただ、奥に見える美しく幾何学的な模様が出るように整然と並べられた煉瓦を見ると、当時の人夫らの苦労が伝わってくるようだ。この倉庫が明治時代に何人の職人や日雇いニンプさんを現場代理人が蹴り飛ばし、殴り倒し、何百日目で完成させたのだろうか。いやいや、現代の使い捨てハケン時代じゃあるまいし、それはないだろう。
当時は当然ながら重機もなく、レンガを一つひとつ手作業かつ、ヤッスイ賃金で積んでいったのだろう。いずれにせよ、三途の川の石積みよろしく、重労働は本当にご苦労なことだっただろう。まあ、筆者のあずかり知るところではない。
この「レンガ倉庫」は、100年もの長い年月の間、滝川の街の発展や、どれほど多くの行き交う人々や出来事を見てきただろうか。倉庫の外も、中の事も。やるせない。